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旅と風

とある地方の学生がいろいろ書いていこうと思うブログ

自力で「大学進学」というのはなかなか難しいというお話

僕には借金が300万円ほどある。奨学金である。県の育英会から借りた入学一時金100万円と、日本学生支援機構から借りている200万円ほどの借金である。

最近、仕送り13万の大学生が燃えていたが、それだけもらえるなんて羨ましい話じゃないかと思った。奨学金を借りずに過ごせるなら、それに越したことはないんじゃないかと思う。

ちなみに僕は家庭の収入状況が厳しいこともあって、仕送りは0である。家賃、光熱水費、通信費その他もろもろも、奨学金バイトだけで賄っている状況である。

授業料免除があっても、奨学金だけでは生活できない

国公立大学では、多くの場合授業料免除制度がある。うちの大学は最低限の成績と、家庭の収入状況で判断されるので、幸いなことに、僕は授業料を全額免除してもらえている。

それで、日本学生支援機構奨学金をもらっているおかげで、その奨学金だけでバイトもせずに、学問に集中できるのかと言われると断言できる。無理だ。

日本学生支援機構の第一種(利子なし)奨学金では、自宅外通学の場合、月額5.1万円借りることができる。この中から、家賃、光熱水費、通信費を払った場合、安い物件に住んでいたとしても、1万円も残らない。これは地方国公立大の場合だから、アパートなどが高い首都圏の場合、家賃だけで消えることだってあり得る。

食費を1か月1万円生活したとして、手元に残るお金はゼロだ。病院に行くこともできないし、帰省するお金も残らない。

加えて、サークル活動や、研究室の飲み会などで、いちいち数千円のお金を徴収されるとなるともう破たんである。

もちろん、利子ありの奨学金も併用すれば奨学金だけで生活することもできるが、卒業後に残る借金の額を考えれば、現実的な話ではない。

となると、自力で大学進学し、奨学金だけで生活しようとするのはなかなか難しい。何かしらのアルバイトをして収入がないといけない。

もし授業料免除がなかったら

国公立大学で授業料免除がなかった場合、奨学金は全額学費に消えることになる。すると生活費やその他もろもろの出費を捻出するためには、月6~7万円の収入が必要になる。だいたい60~80時間のアルバイトが必要だ。

今でこそ学生生活も慣れ、アルバイトも慣れ、収入も落ち着いて得られるようになってきているが、これを大学入学直後から要求されることになる。自分の場合、入学一時金でお金を借りていたので、アパート入居費用やら、アルバイトが落ち着くまでの費用やら、その他もろもろの出費を賄うことができたのだが、そうしたお金がない場合、入学、即、死という状況だってなくはない。

1年目のたいして使わなかった教科書に、数万円とんだ事は今でも忘れていない。

家族関係の問題で、支援してもらえないなら

自分の場合は奨学金を借りれているので、どうにか生活できているのだが、例えば、家計に十分な収入があるのに、家族関係が良好ではなく、とかそういった事情で奨学金も借りれない、家計からの支援も望めないといった場合、どうすればよいだろうか?

授業料免除制度も、家計に十分な収入があると判断された場合、慈悲もなく授業料を請求してくる。当然といえば当然なのだが。

すると、授業料も生活費も自分の収入で賄うほかなくなってくる。アルバイトで長時間働くとか、なにか犯罪めいた手法でお金を入手するとか、そういう必要が出てくる。

授業料が53.5万円、年間生活費が80万だとして、これを自分の収入だけで賄う場合は、(合法的な仕事の場合)親の扶養から外れて働く必要がある。ギリギリ勤労学生控除で、所得税がかからなかったとしても、国民健康保険に加入する必要も出てくる。

加えて大学入学時の入学金も、徴収猶予をお願いできたとしても、8月までに支払わない場合は除籍になるため、そのお金(だいたい28万円)もどうにか捻出しなければならない。となると、1年目から相当な金額を稼ぐ必要がある。

家計からの支援もなく、奨学金も得られない状況では、自力での大学進学は、絶対に無理と言っても過言ではないと思う。

家計によらない奨学金、あるいは授業料支援

高校から大学に進学する時点で、家計によらない奨学金(給付型でも、貸与型でも)だったり、授業料免除の確約というのは必要であると思う。

現行の制度では、家計に十分な収入があるのに、支援は受けられない学生の支援というのがおろそかになっているように思える。もちろん、自分のように、アルバイトしないと食ってけない学生に対する支援もほしいところではあるのだが、こういった制度があれば、貧困のサイクルから脱する人の数も増えるんじゃないかなあと思ったりする。

もっとも、学力による選抜はあったほうがいいと思う。センター試験の成績だったり、入試成績だったり。(センター試験は数年内になくなるようだが)

高校の成績ではなく、全国統一的な試験で、評価して、希望者には奨学金をという形が今求められているものであるような気がする。

 

やりたいことが全く進まない日曜日

予定がない週末、たいていはあれやろう、これやろうと計画を立てて迎える。しかしながら、その計画はいつもより遅い起床時間によって消滅する。

ましてや寒い冬。布団の上で時間だけがどんどん過ぎて、気がつけば夕方。ああ、今週末はなにも進まなかったなあ。

週末にブログ記事を書きためようと思っていた

バイトもない、研究室に行かなくてもいい、個人的な予定もない。そんな週末は絶好のブログ日和である。記事にしたいことは山ほどあるのだが、平日にブログ記事を書き上げる余裕は残念なことにない。

それなら、こうして時間があるときに書きためておけばいいや、と最近は予約投稿を使って、一日2記事更新できるようにしていた。一日2記事というのはなかなか厳しいなあというのが数日続けて実感した。この世のブロガーさんたちというのは、どう時間を捻出しているんだろう、1記事にかける時間はどれくらいなんだろうという疑問がわいてくる。

僕の場合は、1記事に1時間くらいかかってしまうので、10記事も書こうもんなら、10時間くらいかかってしまう計算になる。なるべく更新が途切れないようにしたいなあと思っていたのだが、どうしても1日2記事というのは無理があったようだ。

週末の計画が崩れる理由

アラームをかけなくてもいい、多くの時間寝ていられるというのはやはり大きい。すると起床時間は気がつけば昼前。朝ごはん兼昼ごはんを食べると、また眠くなってくる。

灯油が切れたら買いに行かないと、洗濯もたまってきたからこなさないと、なんてやっているともうこんな時間。

ブログ記事を書きためる以外にも、部屋の掃除をしようと思っていたのに、もう夕方近く。なにかする気力も起きない。とりあえずデレステでもやろうか。

するとさらに時間が過ぎて、外は暗くなっている。

今日はもういいよね。夕ごはんを食べて、布団に入ってネットサーフィン。電気毛布が入っている布団は僕の味方。寒い日でも暖かい環境をいつでも用意してくれる。布団から出る理由があるだろうか。いやない。

こうして僕の週末は失われていく。いや、体力回復には十分時間を使えたのだが、個人的に溜まっているタスクはなに1つ終わらずに1日を終える。外にも出ない。

規則正しい生活が一番なのだが

週末も決まった時間に起きて、やるべきことをこなしていくのが一番いいのは分かっているのだが、なかなかそれを実行に移せないでいる。たいてい週末はバイトが入っていたり、個人的な予定で県外にいたりと、休みが休みではないことが多い。

そうすると、なにもない休日というのは珍しく、ついつい休んでしまう。こういう日もあったっていいじゃないと思えるほど、普段から生産性が高い日々を送れるといいのだが……。

僕がα77 Ⅱをほしいと思う理由

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α77 II | デジタル一眼カメラα(アルファ) | ソニー

先日のブログで書いたりもしたのだが、僕はα550を持っていて、レンズもそんなにいいものではないものの、単焦点を2本持っている。

α550でも不満がないのだが、写真を引き伸ばしたりするようなときなんかは、正直ちょっと画素数があってもいいかなあとか思ったりする。また、本格的に一眼レフを持ち始めて7~8年が経って、そろそろ中級機もいいなあと思ったりする。

レンズ資産がいくらかあって、次買うとしたら、やはりAマウントのαだろう。Aマウントの先行きは若干不安だったりするのだが。

taw.hatenablog.jp

ファインダーが大きく明るい!

α550は従来通り、そしてニコンやキャノンと同じくミラーでファインダーに像を送っている。リアルタイムに像が見えるという利点はあるのだが、センサーサイズの都合で、どうしてもファインダーの像を大きくすることができない。

昼間明るいときのスナップ写真なんかを撮るときは別に困らないのだが、50/1.4のレンズをつけて、細かいピントを調節するときなんかに、ピントを掴みづらいという問題がある。もっとも、撮影技術の問題だろと言われてしまえばそれまでなのだが。

しかし、α77Ⅱでは、ミラーを持っているものの、その像を透過させて撮影素子で像を受け、液晶のファインダーにその像を受けている。液晶に映すということは、そのサイズはリアルにファインダーに受けた像よりも大きく映すことが可能で、しかも光学的に難しかったファインダーを明るくすることができる。

かなりの近視の自分にとってはかなりのメリットだ。

キットレンズでちょうどいいズームレンズが手に入る

メインで使っているレンズが28/2.8と50/1.4だけなのだが、このカメラのキットレンズには16-50/2.8というちょうどいい、よく使うであろう範囲のズームレンズが手に入る。しかもレンズの明るさは2.8通しと、かなり明るい。

一応、α200についてきた18-70/3.5-5.6というレンズも持ってはいるのだが、画質に難があり、単焦点レンズを手に入れてからは一切使っていない。

単焦点レンズには単焦点レンズのおもしろいところがあるのだが、このズームレンズはかなり広角の写真を撮るのにも使える。写真表現の幅が広がるのは間違いなしだ。

また、今持っている単焦点たちは、レンズコーティングがフィルムカメラ時代のもので、強い光源の写真を撮ったりするとフレアが乗ったりする。一方でついてくるこのレンズはデジタルに特化したものなので、コーティングもデジタル仕様だ。

画質的にも結構なアドバンテージになるだろうなあと思う。

価格だけがネック

ここまでくると買わない理由がないように思えてくるが、安く買えたとしても15万は下回らないだろう。しかも3年ほど前の機種。

自由に使える金が数百万単位であったらポンと買うのだが、そうもいかない。せめて宝くじでも当たれば買うのになあと思うのだが。

浪人して本当に人生を損したか?

今週のお題「私のタラレバ」

僕は大学入学するまで、1年間修業せざるを得なかった。つまり浪人である。「君を入学させてあげよう」という大学がなかったのだから仕方あるまい。

大学入試というのは無慈悲で、国公立大学は前期と後期の二回受験チャンスがあるのだが、後期試験ではたった2点差で「君はいらない」と言われていたのである。その2点に何人集まっていたのかは知る由もないが、あと2点だったんで、という慈悲は通用しないということを、18歳の春に知ったのである。

浪人生の1年間

大学入試に向けて修業する訳だから、ひたすら勉強である。予備校に通い入試に必要な知識を取り込み、それを答案に表現する能力を高めるために1年間費やすのだ。それを修業と言わずして、なんと表現すればいいのだろうか?

もっとも、僕は寮に入らずアパートを借りて一人暮らしをしていたので、ある程度自由が利く生活だった。まどか☆マギカの新編を映画館に見に行くくらいには自由だった。

寮ではないということは、自分の食い物は自分で作らなければならない。少ない仕送りでどう食費を安く上げるかという点においても、修業できたように思う。ただ、勉強時間は削られた。

1年後の成果はどうなったのか?

修業不足だったらしい。第一志望には見事蹴られた。大学入試の失敗というのは、絶望感を与えるもので、世の中というのは無慈悲だなあと思ったりもした。正直、大学別模試でA判定を取れるくらいには修業の成果が出ていたので、落ちるということは想定していなかったが、結果は修業不足。勉強不足。日々の成果を生かせないのだから、入試に落ちる。

結局後期試験で、現役時にも受かったであろう大学に落ち着くことになった。

この1年間は無駄だったのか?

現役の時にでも受かったような大学に進学したということは、この1年間が結局のところ無駄だったのではないかと思わせてしまう。客観的に見れば無駄だったのかもしれない。

でも自分ではそうは思わない。この1年間での成果を数値化せよと言われると、ちょっと伸びたセンター試験の成績や、模試の偏差値くらいしか示すものはないのだが、日々ある目標に向かって勉強する、努力するというのがいかに充実した日々だったのか、というのを今振り返って思ったりする。

あるいは、予備校には変な人間が多く存在するもので(それは生徒だったり、講師だったり)、そういう環境に身を置くことで、考え方の多様性を得たように思う。さすがにこれは言い過ぎかな。

一番思うのは、自分が常に正しい訳ではないし、自分の努力が果たして人と比べた時にどうなのか、ちゃんと客観視する必要があると、浪人の絶望から学べたことである。僕が仮に現役で第一志望に合格していたら、自分やそれに近いものしか認めない偏狭な人間になっていたかもしれない。

現役合格していれば、進路変更していなければ

今の僕は、華のキャンパスライフと呼ばれるような生活からほど遠い生活をしているが、果たして現役合格していたとして、そういう生活を送っていただろうか。

僕は文系から理系に進路変更して、その結果理系科目の学力不足で浪人、第一志望にさようならを言い渡されることになったが、文系のままだったら、上位の大学ですばらしい学生生活を送っていただろうか。

僕にはそうは思えない。

想像力が足りないのかもしれないけれど、僕がそうした生活をしているとは到底思えないのだ。

今それなりに楽しく生活しているおかげだろうか。それとも、その環境を知らないせいだろうか。理由はなんとも説明しがたいけれど、もし現役合格していたら、進路変更していたらという選択肢を想像できないのだ。

浪人は勧めないが、浪人=悪ではない

浪人することは悪ではないと思う。受験勉強から離れて、あの日々を振り返ると、なんとも充実した日々だったのだろうかと思ってしまうくらいだ。もう一度あの日々に身を置いたっていいんじゃないかと思えるくらいに。

ただ、浪人することは勧めない。親に負担をかけることになるし、実際生涯年収が少なくなるという話もある。現役合格するに越したことはない。でも結果的に浪人することになったら、それは悪ではないし、人生において損ではないと声を大にしていいたい。

なあに、君が入学することになる大学には、浪人して入った人もまあまあいるだろう。大学で年齢差なんて気にすることはない。ただ、類は友を呼ぶのか、浪人と明かしていないのに、友人たちが実は浪人生だったなんてことは多い。

「タラレバ」の世界を見られたら

自分が生まれなかったら、というのは最大のタラレバだと思う。そんなSFチックな小説が米澤穂信の「ボトルネック」という小説だ。

ボトルネック (新潮文庫)

ボトルネック (新潮文庫)

 

タラレバの世界は本当に幸せな世界なのか、タラレバの世界を覗けることが、本当に幸せなのか。この一冊を読んで考えてみるのもいいかもしれない。そんなことをこの記事を書きながら思ったり。